重度要介護の方、難病の方でも家族と自宅で過ごしているような施設を作りたい!ナーシングホームケアリー舩見社長インタビュー

いろいろナースでは、訪問看護が手がけるナーシングホームの可能性についてこれまで様々な角度からお伝えしてきました。

近年、自宅でのケアや介護が困難になった方をお預かりする施設は増えているものの、本人や家族の意向が反映されず、病棟のように寝かせきりの状態に置かれてしまうことも少なくありません。

本日ご紹介する「ナーシングホーム ケアリー」は、重度要介護の方や難病の方を積極的に受け入れながらも、決して寝かせっぱなしではなく、できるだけ自宅での生活に近づけられるように様々な取り組みをおこなっている施設です。

この在宅生活の延長線にあるケアリーのナーシングホームのあり方は、在宅医療関係者から大きな注目を集め、現在、看護師がやりたかった理想の介護施設として全国の訪問看護ステーションからの視察が絶えない状態にあります。

本日は、この「ナーシングホーム ケアリー」をゼロから作り上げた株式会社ケアリー代表取締役社長、舩見友美さんのインタビューをお届けします。

スイミングとダンスで培った根気とバイタリティ

——まず、これまでの舩見様の歩みについて、うかがいたいと思います。

介護の仕事は未経験ながらケアリーを立ち上げたバイタリティーの秘密は、幼少期からの過ごし方と関係があるそうですね。


はい。おそらくそうだと思います。母が教育熱心で、子どものころは月曜から土曜まで毎日、公文、スイミング、ピアノ、習字といった習い事をしていました。

中でもスイミングは大会で思うような結果が出ないと悔しくて、熱心に練習しました。一つ年上の強い選手がいたんですが、その子を抜きたいという目標ができたことで成績もどんどん上がり、目標は達成、市区町村の大会で優勝もしました。

ただ、水泳は続けていると体型が逆三角形になるんですよね。

小学校高学年くらいになると、身体がムキムキになるのがイヤで。目標も達成したし、水泳に対しては自分の中では燃え尽きた感じになりました。


——その後、さらに熱中できるものとの出会いがあったとか。


はい。両親がやっていた社交ダンスを私もやりたいと思ったんです。両親にしてみれば、最初は趣味程度の気持ちだったのが、次第に「大会に出よう、子どもにいいものを見せよう」と極めていったようです。

私自身も最初は「年配の人がやるもの」と思っていましたが、両親に連れていってもらったパーティーで見たショーが素晴らしくて。美男美女によるアクロバティックな演技に魅了され、「私もやりたい!」と思ったんです。

社交ダンスって、いまでこそジュニアの大会もあるけれど、当時は子どもがやるスポーツではありませんでした。それでとりあえず基礎を身につけるために、バレエとジャズダンスを習い始め、3年ほどして、父とペアを組んで社交ダンスを本格的に始めました。


——親子でペアを組むというのは、珍しいですよね。


舩見様:そうですね。大会に出て「親子のペアがいる」と話題にもなりました。次第に成績も出るようになると、「お父さんとじゃもったいないから、若い人と組んだら」と父に言われましたし、私も上手な人と組みたい気持ちはありましたが、自分が思うようにやるには他人と組むより父のほうがラクで。


(舩見社長とお父さん)

結局、高校、大学、社会人になっても父と組んでいたので、〝お父さんイヤイヤ期〟もなく(笑)、父のことが大好きでした。


——それだけのめり込んだダンスですが、大学卒業後は一般企業に就職、ダンスはあくまでも趣味として続けていたそうですね。


はい。両親に「安定した仕事だし、向いているから学校の先生になったら」と言われ、教員免許を取り、なんとなく「先生になろう」と思っていたんです。

でも学生時代のアルバイト先でCADの技術を覚え、関連する知識を学んだことで建築に興味を持ち、工業用バルブの会社に就職しました。

当時は、仕事の後に迎えに来た父と一緒にダンスの練習。試合の成績も良かったのですが、さすがに父も年齢を重ね、大会で何曲も踊るのは体力的にきつくなって。それで初めて他の人とペアを組んで、プロの試合にも出るようになりました。

幸運なことに、当時「日本のダンス界を変えた」と言われる大竹先生に弟子入りすることができ、大会で優勝も重ね、その頃がダンス人生のピークでしたね。


(大竹先生と)

いくつもの人生の転機を迎え、少しずつ「介護」の世界への道筋が見える

——その後、ご結婚、ご出産を経ても、しばらくはダンスが生活の中心だったんですか?


はい。ペアを組んでいた人と結婚、出産を機に勤めていた会社は退職し、夫婦でダンススクールを作りました。

生徒さんもたくさん集まり、発表会はディズニーのホテルミラコスタで大々的にやったりして。生徒さんもスポットライトを浴びて踊り、ゲストにミッキーマウスを呼んで、大好評でした。

今思えば、「やるならとことん」という気持ちが当時からありました。

一方、その結婚生活で、脳梗塞で倒れた義父の介護も経験しました。なんとか立ち直らせてあげたくて、そのとき初めて介護の世界に触れました。

それまで存在を知らなかったデイサービスの見学に行ったり、大人用おむつも初めて「こういうものなんだ」と知りました。


——さらにその後、また転機が訪れたんですね


はい。36歳で離婚、シングルマザーになりました。

当時子どもたちは2歳と8歳。すぐには保育園も見つからず、就職は難しかったです。そこで以前やっていたCADの資格を活かして、外構工事や建材を扱う会社でパートタイムで働きました。

そこで感じたのは、図面が単調でおもしろくないな、ということ。CADの仕事はもともと好きだったので、自分なりに勉強して「これはパースでやったほうがいい」「図面は色がついていたほうが見やすいんじゃないか」など、工夫をしていったんです。

するとお客様に好評で仕事の受注が伸びていき、客単価も上がって。

私ももっと道を究めたくなり、エクステリアプランナーの資格を取ったり、模型を自分でパーツから作ったり、仕事に熱中。そのときは「これが私の天職だ」と思いました。


——幼少期からの水泳、社交ダンスといった夢中になれるものを通して、努力する姿勢や「とことんやる」精神が作られていったように思います。


そうですね。「これ」と思ったら納得いくまで徹底的にやりたいし、せっかくやるなら楽しみたいんです。

建築現場をわざわざ雨の日に見にいって、「水がこういう方向で流れているから勾配はこうしよう」とか「どれくらいブロックを積めば雨がよけられるか」を考えたり。

当時は建っている家のフェンスやポストを見ればメーカーや品番がわかり、カタログのどこに何が載っているかわかるくらい、天職だと思って働いていましたね。

母の闘病が、人の尊厳について考えるきっかけに

——その後、お母様の病気がみつかったことも、大きな転機となったそうですね。


はい。母がまだ40代だったとき、ステージ4の乳がんが見つかりました。幸い、そのときはリンパへの転移はなく、しばらく再発もなかったのですが、10年経った頃にステージ1の乳がんが、さらにその後、すい臓がんが見つかりました。

私自身、病気についての知識もなく、「母に限って大丈夫」「元気になるために抗がん剤治療を頑張ってもらおう」と思っていました。

母とは「ハワイに行くために頑張ろう」と言って、入院する前にパスポートを作ったんです。「抗がん剤治療のあとだと顔がこけたり髪が抜けちゃうから」と言って、先に写真を撮って。

ところが、看護師さんから「お嬢さんは治ると思っているかもしれませんが、いいところもって1年半ですよ」って言われたんです。

実際、抗がん剤治療で数値が良くなった時期もあったのですが、ある時期から停滞し、結果的には看護師さんの言う通りになりました。


——家族に対する態度として、疑問が残りますね。


本当にそうですね。しかも母が亡くなる直前に、「亡くなったあとは早めに病院を出てほしいので、葬儀屋さんの手配を」とも言われて。

病院で母が亡くなるときの看取りにも悔いが残りました。

そのときに「お看取りや葬儀というのは、亡くなった本人はわからないけれど、家族にとっては〝ここまでやってあげられた〟というグリーフケアになるもの。自分自身の気持ちを整えるためにやるものだ」と、葬儀屋さんに言われたんです。

家族として納得がいく看取りができなかったことは、のちに私がケアリーを作る大きなきっかけになりました。

母の闘病を通して思ったのは、「病気になることは罪じゃない」ということです。母は周囲に対していつも「ごめんね」と言っていたんです。だけど、やってもらって申し訳ないなんて思うのは違う。そんなふうに思わせてはいけないと思いました。


——その時点ではどんな施設をイメージされていたんでしょうか。


当時はまだ父が健在で元気だったので、介護施設で父ができる仕事を作り、地域貢献に加わってもらいながら、いずれは父もそこで暮らせる施設を作れたら、と考えていました。

ちょうどそのころ仕事を通じて、滋賀で「まごころ住宅」という住宅建設会社を経営されている藤村典久さんと出会いました。

そして、藤村社長のお父様が「ALS(筋萎縮性側索硬化症)で看護が必要な状態なんだけど、受け入れ先がない」という相談を受けたんです。「ALSって何?」というところから調べはじめ、サッカークラブチームFC岐阜の元社長だった恩田聡さんのことを知りました。

彼のブログを読み、恩田さんがALSで闘病しながら日本で初めて障害福祉サービスを24時間勝ち取った方とのこと、この病気で闘病中の多くの人たちは、日常生活で不自由しながら何も打開策がないことを知りました。


——そこから介護施設を作るために、本格的に動き出したんですね。


はい。障害を抱えている人たちは経済的にも困窮していたり、預かる場所もないから家族が犠牲になることも多いです。

でも、病気になるのはその人の罪ではありません。私の母がよく口にしていたように「ごめんね」なんて思わず、家で暮らしているように遠慮なく過ごせる場所を作りたい、というのが、介護施設を始める際のコンセプトになりました。

根がおせっかい気質なので、「藤村社長のお父様の行く場所も私が作らなきゃ」と、思って。

介護職の経験がないまま、介護施設の運営に携わる

——それまでにお母様の闘病を支えたり、義理のお父様の介護の経験はあったものの、職業として介護施設で働いたことがないまま、施設を作られたんですね。


はい。介護士として働いたことがないので先入観もなく、ほかの施設と比べて「ふつうはこういうことはしない」と考えない分、やりたいことを追求できました。

たとえば施設の建設段階でも、「壁が白じゃなきゃ落ち着かない」という発想もないから、何十種類も壁紙のカタログを取り寄せ、「こうしたい」というアイデアを実現していきました。


——とはいえ、スタート当時は大変だったそうですね。


そうですね。オープン時、入居者は3人でした。藤村社長のお父様とお母様、それとガン末期の男性。ちょうどコロナ禍の時期で、男性は病院にいたときは奥様とも面会できず、つらい思いをされていました。

入居時はすでに病状が思わしくなかったのですが、奥様は「お盆に息子が帰省するまで生かしてほしい」とおっしゃって。とにかくスタッフ一同、総力戦であたりました。

できることは全部してあげたいと思い、「何が食べたいの?」と聞いたら「スイカが食べたい」「カニが食べたい」と。夏だったのでスイカはありますが、カニは手に入らず、カニの缶詰を買ってきて、カニ雑炊を作りました。

結果的に息子さんにも会えて、奥様が「お父さん、これ以上頑張らせたらかわいそうね」と言ったその日に、亡くなりました。

初めての利用者様の死はショックでした。でも、そのときに奥様が「なんにも後悔することがない。ケアリーに来られて本当に幸せだった」とおっしゃってくださったんです。

そう言ってもらえたことで、私たちがやったことは間違っていなかったと、救われた思いでした。みんなで「これから何人見送ることになるかわからないけれど、今日のこの気持ちを忘れず、私たちにしかできない介護をしていこうね」と話しました。


——開業して今年で3年目になりますが、いまや地域で頼られる存在になっているようですね。それを表すようなエピソードもあったとか。


そうなんです。コロナの時期に病院から電話があり、「コロナ病床を作るから救急搬送の患者さんの受け入れができない。どっちにしろうちで看られなくてケアリーさんに行くことになるから、直接受けてもらえないか」と。

うちは医師がいないので、受けたいけれどさすがにそれはできなくて。でもそうやって信頼していただけたことはうれしかったですね。


——病院やほかの施設からの受け入れの相談も増えていますか。


はい。おかげ様で。新たに入居される方やご家族からは、「前のところではナースコールして30分たっても来てもらえない」とか「衛生面で気になることがあった」とか「おむつをはずさないようにつなぎを着せられていた」なんて話も聞きます。

うちでも、自傷行為や自分の命を危険にさらす行為を防ぐための拘束帯の準備はありますが、1回も使ったことはありません。

ほかにも、前の施設で巻き爪のケアがされていなくてひどい状態だったり、「動けない」と聞いていた人が、うちに来てからはふつうに歩いて階段を降りられた、なんてこともあります。


——ケアリーでは、看取りの際にもほかではやらないようなことをするそうですね。


湯灌ですね。亡くなったことを医師が確認すると、エンゼルケアを行うのですが、そのときにお風呂できれいにしてさしあげ、好きな服を着ていただくようにしています。

きっかけは、ガン末期で入居して3時間で亡くなってしまった利用者様です。何もしてあげられずに申し訳なくて、せめて何かできないだろうかと思い、ご家族に「私たちで良ければお風呂に入れさせてもらっていいですか」と提案しました。

その方は苦しかったのか、手をグッと握りしめていたため、汚れがたまっていたり爪が食い込んでいたんです。

「いまから洗いますよ。気持ちがいいね」「こんなところに傷ができちゃったね」と話しかけながら、亡くなった人に対して敬意を払うスタッフの姿に、私自身が感動しました。自分の親がこんなふうにしてもらえたら、うれしいだろうな、と。

それ以来、ご家族のご希望を聞いて、お風呂に入れさせていただいています。とても厳粛な時間ではありますが、ご家族も「母はこうだったんですよ」なんて話をしてくれたり、お風呂から上がって着せる服を選ぶときも、「この服がかわいいんじゃないですか」なんてご家族と話したりします。


——ケアリーならではの、素晴らしいお見送りの時間ですね。


はい。日々、入居者様のために一生懸命やっていても、亡くなられたときは「もっと何かできたんじゃないか」という思いが残ります。

でも最後にしっかりお風呂に入れてさしあげ、ご家族に喜んでいただけると、これで良かったと思うことができます。

スタッフの中には「常識では考えられない」「なんでそこまで。それは私たちの仕事ではない」という反対意見もありました。でも、何よりご家族の満足度はとても大きいです。

私自身、いまでは介護スタッフと同じようにお風呂に入れることができるようになりました。出張などで不在のとき以外は、お看取りがたとえ真夜中でも駆けつけ、お見送りし、ご家族にご挨拶しています。

一人ひとりの望みを叶えるために“とことんやる”精神を発揮

——何事も全力であたる舩見様ですが、入居者様お一人おひとりの顔と名前が一致し、さらにはその方の状態や性格なども把握されているそうですね。

これまでで心に残っている方はいますか。


入居者様それぞれに思い出がありますが、開業前からずっと親しくしていただいた方で、病気が進行して〝いよいよ〟というとき、ケアリーに入居してくださった方がいました。

気遣いの方で、入居されてからも私の誕生日やクリスマスにプレゼントを用意してくださいました。とにかく前向きで、生きることをあきらめない人でしたね。お嬢さんとライブに行きたいというので、私たちも診療情報などを準備して万が一に備えて。

亡くなる数日前にはおうちに戻り、過ごしていただくこともできました。

いまでもその方のことは大好きで、いただいたプレゼントはもったいなくて大切にとってあります。

ほかにも、いまでもご家族がお手紙をくださる方もいて、本当にありがたいです。

入居者様の顔を名前だけでなく、その方の性格や好きなものを知っておくのは、その方が元気だったころと同じように過ごしてほしいという思いからです。


——ケアリーならではといえば、セラピー犬として秋田犬が3頭いるのも特徴ですね。


はい。現在、秋田犬の「ふふ」「けありー」「こころ」の3頭がいます。

犬を飼ったきっかけは、ALSで入居されていたある方が、「生きる目標がなくて、ここでただ寝ていてもつまんないから、犬でも飼ってくれない?」とおっしゃったことです。

友人の施設で黒のラブラドールレトリバーを飼っていると聞き、いいなあとも思っていました。その施設のスタッフが、「もう1頭飼おうと思っていて、多治見のブリーダーさんのところに行くから一緒に見にいかない?」と声をかけてくださいました。

見に行くと、長毛のコロコロモフモフした秋田犬の子犬がいて、すごくかわいくて。その子は一緒に行った方が購入したんですが、その愛らしさが忘れられず、私たちの施設でも飼おうと決めました。

それからは〝長毛の白い秋田犬〟を探し、全国のブリーダーさんのもとを訪ねました。最初にうちに来たふふは、そうやって出会った子です。

実は一時期、ふふが原因不明で体調を崩し、危険な状態になったことがあったんです。利用者様のショックを考えたらなんとかしなければ、と思って新たにけありーを迎え入れました。

その直後にブリーダーさんから「白の長毛の秋田犬がやっと生まれました!」と連絡があり、こころをお迎えすることに。すると、子犬を見てふふの母性本能が目覚めたのか元気になり、いまでは3頭ともなくてはならない存在です。


——ワンちゃんが来てから、入居者様の変化はありましたか。


そうはもう、効果は絶大でした。

毎日犬に会いたいから起き上がる人や、頸椎損傷して麻痺があるけれど犬をなでたくて、動かない手を一生懸命伸ばして触れようとする人もいます。

スタッフたちも癒されるし、利用者様のご家族も、小さなお子さんがいらっしゃったときは、エサやおやつやり体験をしたり。見学希望の方で、「ワンちゃんいますか」と確認してくる方、「さみしがり屋だからワンちゃんがいたら気がまぎれる」と言って入居を決めてくださる方もいました。

もともと、犬を飼うなら大型犬がいいと思っていました。小型犬だと小さいから人間のほうが「守ってあげなくちゃ」という気持ちになりますが、大型犬だと安心感があり、利用者様がベッドに横になっている目の高さで犬と目が合うので、みなさんの気持ちの安定にも効果がありますね。

「今日は天気が悪いね」と犬に話しかけたり、失語症の方がにっこり笑いかけたり、そういう変化がとてもうれしいです。

利用者様のため、働く人のため、使命感を持って運営

——入居のお問い合わせや利用者様も順調に増えていますが、今後の課題は何でしょうか。


運営していて思うのですが、受け入れ先がなくて困っている人がまだまだたくさんいます。

ほかのナーシングホームだと、医療措置の必要な人しか受け入れない、という話も聞きます。要介護4や5の人で吸入が必要な人、インスリン注射や血糖測定がある人は、なかなか受け入れてもらえないんです。

じゃあそういう人たちはどうしているかというと、療養施設にレスパイトで入ったり、ショートステイを利用してしのぎ、その間に受け入れ先を探しています。

そういうご家族からのお問い合わせも多くあり、受け入れるキャパを増やしたくて、昨年、滋賀県彦根市に、ナーシングホームケアリー彦根宇尾と、岐阜市内に、ナーシングホームケアリー岐阜下佐波2号館をオープンしました。

もう一点は、スタッフのためにも事業をある程度大きくすることです。

介護事業なので、運営上の利益は限られています。その中で、長く働いている人のお給料をどうやって増やすかというと、ある程度の規模で余裕を持たせた経営を続けることが必要になります。

現在、当社の従業員は102名。働く人のためにも、会社の経営を安定させることも大切だと考えています。


——経営者として大切にしている思いはなんでしょうか。


利用者様の命を預かっている責任を感じています。

日々、大きなことから小さなことが起こりますが、何があっても逃げられない、立ち向かっていくしかないですね。

何か問題が起こるたび、「こんなことで負けられない」と思います。

事業を始めた最初のころ、「私は社長になりたくてなったわけじゃない」と言ったことがあったんですが、「そんな社長のもとで誰が働きたいと思うか」と、会社経営の先輩である藤村社長に言われ、ハッと目が覚めました。

社長である以上、会社の規模もある程度大きくして、福利厚生を整え、退職金も出せるようにする。働くスタッフを大切にすることは、利用者様を大切にする人を育てることです。

どうしたら楽しく働けるか、働く環境を良くすることを考えるのが、私の仕事だと思っています。


——スタッフたちがイベントを企画したり、利用者様を楽しませるために積極的にアイデアを出してくださるそうですね。


ケアリーはイベントに力を入れています。初めてのイベントはハロウィンで派手に飾り付けをし、その次がクリスマス。どんな状態の方でも楽しんでもらおうと思い、企画しています。

クリスマスのイベントでは、ご家族様でフルート奏者の方がいらして、知り合いのピアニストと一緒に演奏をしてくださいました。

その際に、すごいことがありました。ふだん寝たきりで、話しかけても反応がないから、私たちもいつの間にかあまりしゃべりかけなくなっていた利用者様が、演奏を聞いて涙を流しながら手を叩いていたんです。

そんな力があったのかとおどろいたと同時に、私たちが勝手に「しゃべれないしわかっていない」と決めつけていたことが申し訳なくて「ごめんねー」と。

そこからスタッフ一同、「よし、イベント、がんばろう!」という雰囲気ができ、いまでは「私はこれをやります!」と競うようにアイデアを出してくれます。

スタッフ自身もノリノリで、練習や打ち合わせでスタッフ同士も仲良くなれるんですよね。みんなが大笑いして楽しむイベントを、これからもやっていこうと思っています。

私たちにしかできないケアをしたい

——ケアリーでは利用者様一人ひとりの状態を見ながら、積極的にその方の希望を叶えてあげる取り組みをしているそうですね。


最初のころは、「こういう状態の人にはこういうことはさせない」とか、「むせてしまうからごはんは食べさせない」など、一般的な病院や施設でのやり方を主張する看護師もいました。

だから、〝ふつうはしない〟人にごはんを食べさせたり、外出の希望を叶えようとするケアリーのチャレンジを、「そんな危険なことを?」と言われたこともあります。

それがいまは、「できるかどうか、歯科医師に嚥下の状態を見てもらいましょう」とか、〝やることを前提に、失敗しないための準備をする〟という意識に変わってきました。

気管切開をして人工呼吸器を付けている人に柿を食べてもらうため、「ジュレにしたらどうか」など話し合ったり、看護師が付き添い、初詣に行った人もいます。

何年も口からごはんを食べていなかった人が、口から串カツを食べたりもしました。その方のお嬢さんは、「お見舞いに行くたびにそのときの話をして、本人はご満悦」と話してくださいました。


——ケアリーの取り組みに賛同し、「ここで働きたい」というスタッフも増えていますね。


そうですね。まだブログもなかった開業当時に、一企業として見て応募してきた人たちと、最近はだいぶ変わってきました。

施設の日々の様子を発信しているブログを読み込んできて、「だからここで働きたい」と言ってくれる人、私自身が母を看取ったときの体験を書いた会社のあいさつ文を読んで、共感を持って来てくれるスタッフも多いです。

先日は、新規オープン予定の施設の採用について、「新しい施設でも犬を飼いますか」という問い合わせがあり、「犬を飼うならそこで働きたい」と言ってくれた方もいましたね。


——これから新規オープン予定のケアリーの施設が全国各地にありますね。今後の目標を教えてください。


「ここにも建ててほしい」「この地域も困っている」という声を多くいただいています。今後、山梨県甲斐市、静岡県静岡市、三重県松坂市、愛知県西尾市、大分県中津市、岩手県一関市、宮城県仙台市などでオープンする予定です。

ほかのナーシングホームの話を聞くと、「私たちがやったほうが絶対いい施設になる」と感じることも多々あります。お金儲けだけでやる施設には負けたくないですね。

その地域で一番のホームを目指し、ひいては日本一になりたいです。

職員の質、利用者様の過ごしやすさにおいて、一位を目指したいと思っています。


——舩見様の幼少期からの過ごし方やダンスへの取り組みなどをうかがい、人や仕事への情熱、〝とことんやる精神〟が育まれた過程が見えてきました。

本日は貴重なお話を、どうもありがとうございました。

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